突き上げる気持ち

朝目が覚めた時に、なんとなく自分と身体、特に痛い左腕にありがとうと言ってみた。そうしたら、なんとなく停滞?やる気がでない?感じから、急にぐぐっと突き上げる気持ちが込み上げてきた。

昨日の、ポジティブもネガティブも最終的な願いは1つだと思い出して、私の掃除や片付けの事を考えてみた。

私の願いは、スッキリと爽やかな部屋で、ゆったりとコーヒーや紅茶を飲むこと。

でも、負担に感じる自分がいて、どうして仕事もして疲れてるのに掃除は私ばかりやらなきゃいけないの?そして掃除というキーワードにトラウマ的な、嫌な気持ちが乗っかってしまう。

トラウマは母と姉からの、部家が汚いといつも言われていたこと。でも今考えるとそれはストレスの捌け口が私に来ていたのかもしれない。私は汚部屋と言われるほど、足の踏み場もないほど物が散乱していないし、片付けようと思うと片付けられる。でも片付けや掃除を始めると、その頃言われてきた声が聞こえてくる。自然にほこりは溜まるし、物だって使えば雑然とするし、それは当たり前のことなのに、あー、またやってしまった、ダメだな自分とすぐに自分を責めてしまう。頭の中は嵐のようだ。

でも、この気持ちも、綺麗にして素敵な自分を目指すのと、自分を休ませてリラックスさせたい自分と、両方とも私の事をとっても考えてくれている。だから、今日はそんな自分を認めて、願いを叶えてあげたいなと思った。そうしたらなんだか元気が出てきた。

そして、突き上げる気持ちはもう1つ、これをブログに書きたい!と。

ほんとに自分て自分を応援してくれているんだと感じた。

私は生まれてから、愛がない家庭だなと漠然と思っていて、回りからは家族がいて恵まれた普通の家だと思われていたと思う。でもほんの小さな頃からそう思っていた。私は3人兄弟の一番下でしかも年が離れている。もうこの年代の人の特有なのかもしれないが、いつも否定され続けていた。母は私に対して何も考えずに思ったことをすぐに吐き出した。そして姉はそのストレスを私に向けていた。私ばかり可愛がられてズルいと。可愛がられている記憶はないのに、そう言われてきて、私の心の中の気持ちは誰にも話せなかった。この違和感。

その頃よく思っていたのは、どうして生まれて来たんだろうということ。

だから、自分のことを知りたいとずっと思ってきていた。自分を知るために、いろんな本を読んだり、自ら宗教に入ってみたけど、自分がこれだ!というものになかなか出会えず。

でも最近読んだ「なまけ者のさとり方」で、衝撃を受けた。これだ!私が求めていたものは。20代の時も素晴らしいと思っていたのに、いつの間にか忘れてしまっていて、久しぶりに読んで衝撃を受けた。

自分が20代の時に読んだ本と別のものじゃないかと思う位、内容が濃かった。そしてこんなに難解だったかな?と思いながら5回以上読み直している。この本には全てが愛だと書いてあり、自分の今の状態で、まわりが違って見える。愛に満たされていれば、世の中は平和だ。

愛はまず自分を愛することから始めないといけない。自分の今の状態を引っくるめて、愛す。善人になったから愛するとか、我慢が出来たり頑張ったから愛するではなく、怒っている自分も悲しんでいる自分も、嫉妬している自分も、私は愛する。愛し方がわからないと思う自分もそのまま愛する。そうしていくと心が塊から広がって自由になる。

私は母から否定されて育ち、自分はダメなんだと思い込んでしまった。そして頑張らなくては愛されないとか、いい人でないと見捨てられるとか心の奥底で刷り込まれてしまっていた。とても苦しかったけど、私はこの答えにたどり着く為の人生なのかもしれないと思った。

だから、愛のある家庭で育ったら、なんで生まれて来たのかななんて思わなかったし、深く自分の事を知りたいなんて思わなかっただろう。

私はきっとこのテーマを知るために生まれて来たのかもしれない。

愛ということはどういうことなのか。それは自分の今丸ごと受け入れて、愛すること。

不安があっても傷ついていても、それも自分。楽しい自分も明るい自分も自分。陰陽全て自分の中にあるということ。

まだまだ悟ってはいないけど、でも生きるのがかなり軽くなってきたかなあと思う。

自分はいつも自分の味方なのだから。