感情を俯瞰する

母が9日間いて、子供の頃からのいろんな感情が揺れ動いた。

なんとも言えない9日だった。でもわかったのは、私は罪悪感を持つ必要がなかった。ただ、小さい頃からのおまえが悪いということにいつもなっていた家庭。もうそう思ってしまうのは、仕方がないこと。

今までは、苦しい感情を持てなくて、いつも相手には相手の事情があったんだろう、私は嫌われているわけではない、私が過剰に反応しているのかもしれないと、嫌だった感情を無かったことにしていた。でも無かったことにはできないし、いつも自分がわるかったのでは?と罪悪感を持つことになってしまっていた。

例えば、友達だったら嫌な感情は持ってはいけないと思っていた。でも友達のここは好きだけど、ここは合わないなと思う気持ちは共存できるということを知った。

母に対しても、やりすぎてしまい、いつも腹がたっていた。母が高齢だから私ができることはする。でも出来ないことは出来ない。私が身を削っていつも苦しくなってしまう。これも、母に対して親孝行したいという気持ちと、でもそこまでは私が苦しくなるから無理と線を引くことは、一緒にできる。

私の最近のテーマは、感情を俯瞰してみる。抵抗しないだ。自分のざわっとした感情が出てきても、今ざわっとしてるなと理解して、意味付けをしない。それだけで、スーッと消えるときもあれば消えない時もある。でも消えなくてもその感情を置いておくスペースを作る。

そうすることで、感情に良い悪いがなくなってくるのかな。良い感情だけにして、いい人になろうとすると、後になって振り子のように苦しくなる。ずっとなかったことにしてるけど、その感情を握りしめているんだな。

私の中で、俯瞰してみるという概念はなかったけれど、それをすることで巻き込まれなくなってきたかなあと思う。何日も何日もその事について考え続けるとか、それは無くなってきたかな。もちろんずっと考えていたとしても、それで自分を責めたり罪悪感はでないとは思う。

そういうことが、自分を愛すると言うことで、自分が何か出来たことをほこりに思うのとは、違う。出来たではなくて、そのままの自分でいる許可というかそのまんまで私なんだということ、それだけなんだと思う。

世の中は思ったよりずっと単純で、社会の考え方や生きてきて自分が身につけてしまった鎧みたなもので、生きにくくしているんだね。

俯瞰できなくても、俯瞰できない自分がいるんだなとそう思える自分でいたいなと思う。